2016年9月26日月曜日


コラム 56  キジバト  

キジバトのつがいは何年位続くものか私は詳しくは知らない。山小屋で見ている限り5年以上は続くようだし、人間のように途中反りが合わずに離婚するといったこともなさそうだ。けんかしている姿もたまには見かけるが、樹上で互いに羽づくろいなどし合って、基本的に仲睦まじい。 


皆似ているからエサ台に集まってくるのは数羽かと思っていた。が、長年見ている内に、それが少なくとも78羽いることが判った。
最近仲間どうしの争いが激しい。エサ台を中心に繰り広げられるから一見エサの奪い合いのように思えるが、どうもそればかりではないようだ。雌の奪い合い(雄の奪い合い?・・・・・雄雌同色なので判断がつかない)かもしれないし、本能的な縄張り争いなのかもしれない。近くに来ただけで気配を察知するらしく、クィーッ・クィーッと威嚇の声を立てて、執拗に追い立てる。であるから、つがいの二羽はともかく、三羽一緒に仲よく食べている姿をこれまで見たことが無い。 

今朝は羽根が飛び散る程激しい三つ巴の争いだ。
仲よくしなさい! といくら言っても聞かない。そんな雄達のもめ事など気にも留めずに、雌は平然とエサをついばんでいる。大したものだ。
犬や猫のように躾かるものだろうか。ダメ出しのタイミングがむずかしいのだが、追い立てようとするキジバトに向かってその都度〝 ダメ! 〟とやればすごすごと引き返していくところを見ると、その可能性無きにしもあらずと思えてくる。

2016年9月19日月曜日


コラム 55  台風

台風が近づいているらしい。

今朝から雨と風が激しくなりだした。

葉裏を見せながら
    大きく揺れる樹々を見つめながら

がんばれよぉ

と声をかける。

倒れるなよぉ

もう30年以上も、
    一緒に生きてきたのだから・・・・・。

2016年9月12日月曜日


コラム 54  野鳥達  

私の山小屋周辺でよく見かけるのはヒガラ・コガラ・シジュウカラ・ゴジュウカラ・ヤマガラといった56種類のカラ類を中心に、ウソ、カワラヒワ、ミソサザイ、それに中型のシメやアカゲラ、カケス、キジバトなどが混じる。 

それにしても不思議に思われる。
一組の番(つがい)から巣立つ羽数は、生涯でどれ位になるのだろう。日本人の出生率は1.4などと言っているが、樹上にかけた巣箱で見るかぎり孵ったヒナは(年に一回なのか二回なのかはっきり判らないが)年間510羽、少なくとも3年位は続くと仮定しても1530羽・・・・・即ち出生率は1530といったことになる。こんな調子で行ったなら山は野鳥達であふれ返るだろうと思われるのに、年々増えていくといった形跡が無い。
巣立ったあのヒナ達はいったいどこに行ってしまったのだろう。それぞれに縄張りがあるから、この辺にはいられないのだと言う人もいる。だが渡り鳥でもない限り生息域は限られているのだから確実に増えてよさそうなものだが、一向にそんな気配は無い。となると何らかの理由で大概は死んで、この1530羽とした推定が数学的には二羽程しか残っていないということになる。それが辛うじて世代交代しているということなのだろうか。知ってみてどうなるものでもないが、毎年巣づくり・子育ての様子を見る度に思われるのである。 
 
 
雪解けの頃から樹間にミソサザイのつややかな声が冴え渡る。
巣立ったばかりのちっちゃな子達が5羽も6羽も親に引き連れられて、地面に積まれた枯枝の間を巡り歩いているのを幾度も目にした。
あのまま死なないで生きていたら、山中は今頃あの美しい声で満たされることになっただろう。春先のさえずりからして世代交代はしているようだが、かわいいあの幼鳥達の多くはいったいどこへ消えてしまったのだろう。

2016年9月5日月曜日


コラム 53  小さな命 その②  

「一切衆生 悉有仏性(イッサイシュジョウ シツウブッショウ)」
――涅槃経(ネハンギョウ)―― 

一切の生き物(あるいは万象万物)には悉(ことごと)く仏性がある、というのだけれど、野菜でも何でも無闇に生命を無駄にするまい、虫もやたらに殺すまいと思っていても、余して腐らせることしばしばだし、蚊に刺されりゃパシリとやるし、アブにやられりゃ咄嗟にバンとやったりする訳です。本当じゃないなぁ・・・・・と思うんですね。
でもジャイナ経のお坊さんなんか、こういう時どうするんでしょうね。アブもよし、ハチもまたよし、刺されてもあぁよしよしといった境地なんでしょうか。 

 
一切衆生 悉有仏性・・・・・と何度も読んでいると、肉や魚に限らず我々が口にする食材のことごとくが生命あるもの、仏性あるものとなって、さらに仏教の五戒のひとつ「不殺生戒」と重ね合わせると、生きるのを諦めなければならないような気分になってきます。こんな感覚が我々の小さい頃までは色濃くあった〝ものを無駄なく、大切に・・・・・〟といった日常生活の心掛けの中にも、又いのちぎりぎりの断食苦行や一汁一菜といった粗食思想の原点にもあったのではないかと思われてくるのです。 

お釈迦様は難行苦行の末に苦楽中道を説いたことになっています。簡単にいえば何事も程々に・・・・・ということなのでしょうが、しかし苦行の末につかんだ境地だからこそ悟り得たのであって、凡庸なる人間が凡庸なる生活の中でいきなり苦楽中道などとやってみたところで、中身は全く違うものに違いありません。
それでもこの食べ過ぎ、呑み過ぎ、持ち過ぎ、しゃべり過ぎ・・・・・と、放っておけば何でも過ぎてしまう世の中にあっては、心がけぬより心がけた方がはるかにいいと思うのです。 

今、玄関先の地べたに黒スズメバチが巣を作って、プ~ンプンプン、プ~ンプンとやっています。殺虫剤で夜襲などかけるようなことはするまい、そっとしておけばそれで済むものをあわてて殺すようなことはするまい、摂理のもとにみんなまもなく死んでいくのだから・・・・・山中に居るとこんな心境になってきます。いよいよ私も悟りの日が近いか・・・・・。