2017年5月29日月曜日

コラム 91  異常気象と吸血バエ  

このことは是非とも記録しておかなければならない。元原稿が失われたので2007年だったか2008年だったか定かでなくなったが、この年は異常に暖かい冬だった。春になって昼はいきなり真夏のようになり、夜は夜で冷え込んで昼夜の温度差が20度以上にも達した。さまざまな気候風土のもと世界を旅して歩いた友人から電話が入った。
〝まるで砂漠のようだね〟 


はじめ熊ん蜂かと思った。前日に一匹、今日二匹。目つき、顔つき、体つきからしてそれは明らかに巨大なハエであった。
同日の午後、晴れたデッキで素足を机に投げ出して本を読んでいた。何かチクリとする感触に足先を見ると、甲にアブのような、しかしアブよりはひとまわり小さい黒いものが付いている。もしもアブならばチクリはもっと強烈なはずだ。午前に見たあの大きなハエとも別物だった。
よく見ると丸々と太った、顔付は全くハエであった。はち切れんばかりに太ったこんなハエはこれまで見たこともない。指先でつついたら、机の上にコロリところげ落ちた。足の甲には小さな吸い口が残った。丸々とした正体は、もう身動き出来ない程に血を吸い込んでいたのだった。紙に掬(すく)おうと指でつまんだら真っ赤な血が白い紙の上にパッと飛び散った。その感触は小さい頃にヒルをつぶしたあの時の感触にそっくりであった。 

そのせいであったかどうかは判らない。夜、微熱が出て寝苦しかった。翌朝には何事も無かったように恢復したが、あの熊ん蜂のようなハエといい、人間の血を吸いに吸って動けなくなった吸血バエといい、何か不吉な時代の到来を予感させて不気味だった。
X-ファイルの映画のせいもあっただろうか・・・・・。

2017年5月22日月曜日

コラム 90  くしゃみにも品格が・・・・・  

ヘェッ、ヘェッ、ヘェ~クション!!
ヘェ~クション!! 

どこからか、止め処の無いくしゃみが聞こえてくる。朝から幾度も繰り返している。花粉症が始まったのかもしれない。それにしてもくしゃみにも品格というものがあるものだ。芽吹き始めた早春の爽やかな空気が、早朝からすっかり淀んでしまった。 


長かった冬がやっと終わりを告げ、樹々がいっせいに芽吹き始め、野鳥たちが歓喜の声を上げる。
山中のゴールデンウィークは別荘地も活気を取り戻す。だが、センスがいいとは言い難い布団が道路側いっぱいにぶら下がったりすると、前を通る度に気が滅入る。 

清々しい自然の中に安らぎを求めてやって来るのが別荘地なのだ。せめて少しは気を使ってもらいたいものだと思う。
 太陽のまゆげも、今日は心なしかへの字に見える。

2017年5月15日月曜日

コラム 89  カエル  

長野県の諏訪市内で打合せを終え、八ヶ岳の山中に戻ってきた。夜の山道には人も車も殆ど無い。
何という名のカエルか私にはわからないが、その山道に夥しい数の茶褐色のカエルが点々としている。標高1400メートル付近から始まってしばらく続いたが、ついに車が立ち往生するまでになった。車のライトに照らし出されて輝く姿を眺めながら〝帰りにカエルかぁ・・・・・〟などとつまらぬことを思いつつ、やがてあまりの数に車から降りた。抜き足差し足近づくと〝あなたはどなた?〟といった表情でキョトンとしている。指で触れると、きゅっと身を固くするだけで逃げようともしない。疑いを知らぬ眼だ。

〝あぶないなぁ。こんなところに居たら、みんな轢かれちまうぞ!〟

   それにしても不思議なのだ。ライトの先を見ると十数メートル置きに数十匹は集団でいただろう。長い距離点在しているのだから、打合せて一斉に出てきたとも考えられない。 
   見上げると空は雨上りの満月であった。
ははァ、この月を観るために皆出てきたのだな。見晴らしのいい場所に出てきて、みんなでこの澄み切った満月を眺めていたのだ。


後日この辺の環境に詳しいHさんに、カエルってのは月を見るために出てくるものかと尋ねてみた。
だが、どうもそうと決まったものでもないらしい。
結局カエルの心はカエルに聞かなきゃ判らないってことになったのだが、・・・・・だが待てよ・・・・・雨上りの電柱の灯りにもよく出ているな・・・・・
私はハッと思った。電灯色に替えた街路灯の灯りを、月と見間違えるのかもしれない・・・・・と。 

ところでカエルを踏みつぶしながら山小屋に帰ったのかって?
勿論まわれ右して裏道を帰ったさ。

2017年5月8日月曜日

コラム 88  命を繋(つな)ぐ、とはいえ・・・・・  

つい先日も出会った。
〝人間死んだら終わり、な~んにも残らない・・・・・〟
この人は魂の存在など、信じないと言う。信じるも信じないもその人の勝手というものだが、真実はきっとひとつであろうから勝手とはいえても、自由とはいえない。
信じないと言いながらも通夜や告別式で悲しみを共にし、初七日、四十九日、さらには回忌法要を重ねる人は多い。これは単に慣わしに従っているだけのことなのだろうか。
人間の魂の存在さえ信じない人が多い世の中では、以下のような話は共感をもって受け止められないに違いない。 


人間のために使役され、食われるためだけに飼育されている動物を見て、若い釈迦は苦悩したという。動物達の心を思えば当然である。それでなくとも自らの命を繋ぐために、他の命を犠牲にしなければならない摂理。避け難い命の連鎖。 

無駄死あるいは(犬にははなはだ失礼なことだが)犬死という言葉がある。何の役にも立てずに無駄に命を落とすことを言う。
ドキュメンタリー映画『いのちの食べ方』(原題:OUR DAILY BREAD)を観た。ナレーションなしで現実だけが流れていく映像を観ながら、動物達にもこの無駄死にがきっとあるに違いないと思った。
人間は最も多くの命を犠牲にする存在であれば、彼らを無駄死にさせないためにもそれが何のための犠牲であるかを少しは考えてみなければならない。人間の、より高次な魂への成長のために犠牲になるのだ、と説く人もいる。しかし、そんなことを言われても果たして・・・・・。 

〝食材として我々の手元に届いたあとでさえ、この命の扱いようや食べ方によって浮かばれたり浮かばれないことになったりするだろう。腹一杯になれば当然残すであろうし、残ったものは命の残りとも思わずに大量に廃棄して平気だ。
この映画に見るさながら大量殺戮にも近い飼育動物達の犠牲は、いったい人間の何のためになっているのかと、しきりに思われてならなかった。命の連鎖という自然界のボーダーラインをはるかに越えてしまっていたからである。

2017年5月1日月曜日

コラム 87  ガソリンより高けえずら・・・・・  

〝この辺で水買って飲むなんて人ぁ、まずいねえぞ、ガソリンより高けえずら・・・・・〟
地元の人が集まって話している。
こう言われて、ちょっと考えてからなるほどその通りだと思った。 

今はガソリンが高い。高いとは云ってもハイオクでもリッター140円までいかない位だ。それに比べて私が途中中央高速のサービスエリアで買ったペットボトル水(500ml)は130円だった。リッターに換算すると、260円という訳だ。 

 
男達のストーブを囲んでの談議は続く。
〝遠くで掘削して、タンカーで日本まで運んで、精製してだろ?〟
〝水なんてもんは、ホレ、汲み上げるだけじゃねえか!〟 

水のきれいな地域に住む人達の発想はきわめて健全だ、私はしばらく感心しながら聞いていた。