2023年1月30日月曜日

 コラム306 <命を与えられている者の責務>


 日本人として学ぶべきことを、あまりにも学んで来なかったという思いは、最近私にとって深刻である。

 アイヌに関する本を最近再び読むようになってから、この思いはなお一層深刻なものとなった。


 人間として大事なことを、もっともっと真剣に学んでくるべきであったとの思いは無念というに近い。

 どうでもいい、つまらぬ雑学によらず、単なる情報や知識を避けてここまで生きてきたつもりだが、それでももっともっと大事な、深く考えなければならぬことがあったとの思いは拭(ぬぐ)えない。


 だが、そんなことを嘆いていても始まらない。まだ命があるのだ。これからも学び続けるだけだ。遅きに失するということもないだろう。今日(こんにち)気付かされたのだから・・・。 今にして気付かされたのだから・・・。

 人間として大事だと思われることを学び続けること──これが命を与えられている者の責務であるとさえ、今の私には思われる。こうあってこそ、永遠の命を信ずる人間の人間たる所以(ゆえん)であろうとも思う。



2023年1月23日月曜日

 コラム305 <野鳥の最期(さいご)>


 野鳥であれ、野生動物であれ、死に時と死に場所はしっかり弁(わきま)えていて、事故死等の例外を除いては、人知れず、静かに、死んでゆく。

 あっちが辛いの、こっちが苦しいの、こうしてくれ、ああしてくれということもなく、ジタバタせずに死んでゆく。いい腹構えではないか。

 彼らの世界には、救急車も無ければ病院も無い。自らの命をひたすら生き、時が来れば静かに目を瞑(つむ)るのである。見事なものだと思う。生半可な悟りを開いたお坊さんよりも、この死への静寂ぶりはすごいのである。

 

 朝、室内の空気を入れ換えるために開けた窓から入ったのであろう、一羽の野鳥が広間の透明ガラス窓にぶつかってはパタパタしている音がする。
 これまでにも同様のケースが幾度かあった。ほとんどはガラスがあるとも知らずに突っ込んでしまうから、首の骨を折るようだ。余計なこととは知りながら、看病したこともあるが、その内瞼(まぶた)を閉じかげんになって、最後には息絶えてしまう。

 特に外側のガラス窓は場所によって鏡のようになり森を写すから、野鳥達には森の延長に見える。その分普通のスピードで鋭く突っ込むから、だいたいは助からないのである。



 死んだ野鳥を外に埋葬した例はこれまで三度ある。ウソの雌(めす)と雄(おす)が一度ずつ、(メスが先に亡くなり、暗くなるまで悲しい声で鳴いていたオスが翌日同じ場所で、後を追うようにして亡くなっていた。)その亡き骸は仲良く一緒にシダの葉を敷きつめ、葉でくるむようにして土に返した。
 あとの二回はルリビタキである。めったに姿を見せない美しい小鳥だが、私の記録には2010,5,2と2012,5,10とある。

 

 今回は外で親鳥がしばらく鳴いていたし、小さかったからミソサザイの幼鳥であったかもしれない。振り返って見た時に、ロフトの上に飛んでいったから、広間の窓を全て開けて、ベッドに腰掛けながらしばらく様子を見ていたが、窓から出て行った気配もなく、ロフトで弱っていやしないかと近所の仲間に来てもらったが、その様子は無かった。連れ合いはイヤだ、イヤだ、恐くてとても見れないと言う。姉にも見てもらったが、どうもその姿は無かったようだ。

 一瞬目を離したすきに、窓から出て行ってくれたのであればいいのだが・・・。



2023年1月16日月曜日

 コラム304 <ドングリコロコロ・・・>


 ドングリの実が

 屋根の上にコツンと落ちて

 コロコロと転がっていく。

 幼い頃〝ドングリコロコロ、ドンブリコ〟と歌ったのを想い出した。

 〝ドングリコロコロ、ドンブリコ〟

 なんと素朴で、いい表現だろう・・・。


 ♪ ドングリコロコロ、ドンブリコ

  お池にはまって、さあ大変

  どじょうが出て来て、コンニチワ

  坊ちゃん一緒に遊びましょ ♪


 こんな歌が生まれる背景は、はるか遠くになりにけり。

  

          ─── 八ヶ岳山小屋の朝、ベッドの中で───(2022,9,18 記す)





2023年1月9日月曜日

 コラム303 <人間の劣化 その②      ───『なぜ日本人はかくも幼稚になったか』(角川春樹事務所)── について>


 1996年に発行された本であるが、著者の福田和也氏は、『日本の家郷』で三島由紀夫文学賞、『甘美な人生』で平林たい子文学賞を受賞するなどすでに注目されていた文筆家であった。又鋭い論評で注目される論壇(ろんだん)の一人でもあった。当時慶大助教授になったばかりの36才。私がこの本に出会った時、36才の壮年にこのようなタイトルで本を書かせてしまう程、日本人及び日本は精神的に衰えてしまったのか、と思ったものだった。福田氏はこの著書に自らも書き記している。


「私は今、36歳です。

 若いとは云えないけれども、しかし世間様にえらそうなことを云うのに

 十分な年齢を重ねているとは到底思えない。しかも、人様のことを指弾して、

 幼稚だなどと云えるほどの、立派な人生を歩んできたわけではありません。

          (中略)

 本当に今の日本人はヒドイのではないか、有史以来、まれなほどヒドイのではないか、

 と思われてならないのです。冗談にすらならないほど、日本人はコドモになっている、

 質が低下して、尊いところが少なくなって、ツマラなくなって、考えが足りない、

 と思われてならないのです。

 しかも、どなたもそのことを、きちんと、おっしゃいません。

 だから、私のような者が、申し上げなければならないのです。」

 

 

こんな風に書かせてしまうひどさが当時すでにあったということです。今の日本及び日本人にはなおさらのこと、と感じている人はとても多いと私は感じています。

 しかし、〝自分のことを考えたら、何も言えない・・・〟といった風にモノ言わぬ、モノ言えぬ日本人が、日本社会の中に激増してしまった。これは事実なのではないか、と思うのです。あるいは多くの日本人が、個人が言っても何も変わりゃしない、と諦めてしまっているのかもしれません。

 私ですら尊いものをいっぱい持っていた日本人が、なぜこんな風になってしまったのか、と心のうちでよく思います。口にしないまでも、私と同じように感じている人々が沢山いるに違いないのです。

 本書は、語り口調は礼儀を弁(わきま)えて、ていねいですが、しかし指摘の内容は直言、辛口です。弱々しくなった今の日本人には、右翼と勘違いされかねない表現もちらほら見受けられますけれども・・・。


 もっと深く、詳しくお考えになりたい方は、御一読を・・・。今は本が読まれない、売れない時代ですから、疾(と)うに絶版かな・・・。




2023年1月2日月曜日

 コラム302 <人間の劣化 その①>


 軍事用兵器開発と足並を揃える形での科学技術、歪んだ物質資本主義経済、延命医学は、たしかに発展したと言えるかもしれない。

 その一方で人間そのものは、総体的に確実に悪くなっている。私が生きた戦後の昭和から平成、令和の今日に到るまで、人間は劣化し、人間としての質が格段に落ちた。


 年の初めだから、もっと希望に充ちた話を書きたいところだが、私の心境はとてもそのようなことを書ける状態ではない。

 こうした実感は日本人の多くが抱いている。特に私のまわりの縁ある人達は、まちがいなくこうした実感を共通して持っている。これはいったい何なのだろう。


 


福田和也氏が慶応大学の助教授になりたての36才の時に『なぜ日本人はかくも幼稚になったか』を著したのは1996年末。

 あれからさらに急速な勢いで人間の質は低下し続けている、と私の眼には写る。ある面異様に発達した科学技術、いびつな資本主義経済社会の副反応という側面もあるだろう。その中でつくり出されたさらにいびつな人間。現代社会は人間の出来・不出来に無関心のまま、こうした異様な偏りを生み続けてきた。

 人間であること、人間として成長するとはいかなることなのか、こうした問いをこの時代はまるで忘れ去ってしまったかのようだ。この世に生を受けた最も大きな意味がそこにある、というのにである。