2020年11月23日月曜日

 コラム192 <自然生態系>

  私の住んでいる別荘地内の標高1500メートル付近に通称美濃戸池と呼ばれている人工池がある。夏のある時期になるとその周辺には蛍が舞い、仲間とよく見に行ったものだ。〝おお、大きいホタル!〟と私が叫んだら、土手に座ってくわえタバコをしているおじさんだったりしたこともあった。その蛍達も今は絶滅した。

 夏から秋にかけて砂利道を車で走って行くと大量に飛び立った赤トンボも激減した。怖さ知らずで、人差し指を立てると指先にすぐに止まり、キョロキョロもせずじっとしていたものだった。足先をつかんでも逃げようともせず、秋田で生まれ育った私をも驚かせたものだった。

 雨上がりの月夜にはあれ程、道路に出てきて月の美しさを楽しんでいるかに見えたカエル達もとんと見なくなった。自然生態系に詳しい人の話によると、農薬などのせいばかりでなく、森の中や道端を流れる瀬を雨水排水や農業用水の効率的な確保のために大小のU字溝に替えた影響が大きいという。横切ろうとして落下したまま、つかまる所もなく、また産卵場所も失われて下流に流される一方だという。

  美濃戸池の蛍が絶滅したのは、ある日誰かがブルーギルを放流したせいで旺盛な繁殖力で増え、何せ肉食系の魚(北アメリカ原産といわれる)だから、元いたフナやワカサギ、ヤゴ、タニシなどを食いつくして、池はあっという間にブルーギルだらけとなった。池の水も急速にヘドロ化した。こんなところで蛍も赤トンボも生息できるはずがない。私は長い間、別荘地の住民の会の会長を務めていたからいろいろ夢を描いたが、美濃戸池の復活だけは果たせなかった。この辺に生息していた蛍は源氏蛍でも平家蛍でもない、小さめの固有種だという。

  ビオトープなどと騒ぎ始めても、一度失われた複雑にからんだ自然生体系をよみがえらせるのは至難なことだ。失ってみて始めて気づくその貴重さ。生きているのは人間ばかりではない。みんなで生きているのだ。

  害獣駆除と称して日本鹿が大量に殺されている。数年前に知った時には茅野エリアだけでもその年度だけで4千頭近かった。もう鉄砲でではなく、大半が罠(わな)だそうである。罠であるなら他の動物も殺されているはずだ。いつの日か、人間が害獣指定を受ける日が来ないとも限らない。どうする?想像しうるということは、起き得るということでもあるのだから……。