2021年10月4日月曜日

 コラム237 <リビングルームに、電話が7>

 来客が3人あれば、元々の固定電話と子機で2台、それに我々迎える側のスマホ/ケータイが2台、さらに今は来客各々がスマホを持っているから、3台がプラスされる。結果大して広くもないリビングルームに計7台の電話があることになる。
 金魚のウンコの如く、いつでも、どこでも付けて歩く。鳴るのは電話だけではない。メール、ライン、それに時々の宣伝音までがあちこちで鳴って、まあうるさいやら慌しいやらで、山中の静けさなど、一瞬にして消し飛ぶことになる。 

 元々私はFAXやケータイなど、便利とはいうものの結局人間の幸福に寄与しないようなものは、極力使わないようにしてきた。仕事場にも、しばらくはFAXなし。〝直筆の文を添えて、クリアーなコピーを郵便でゆっくり送れば十分じゃないか!〟で通してきたが、確認申請などの役所とのやりとりは電話ではダメとなり、やむなくFAXを入れることになった。 

 まずここがやられた。ダムの決壊と同じで、一部が崩れると、まあ人間の弱さというものか、うまく使いさえすれば……などと言って始まったものが、まもなく総崩れを起こすことになる。人間として何か大きなものを失っていくとも知らずに……。 

 最後まで持ちこたえたのが私自身のケータイである。
 脳出血で倒れ入院して以来、コロナウィルス禍も重なり外部との通信手段を失ったから、ケータイを持たざるを得なくなったのである。掛ける/受ける、の機能だけしか私は必要としないから、未だにガラケーで十分である。ガラケーでもメールは使えるのだが、気が滅入るといって私は使わない。それに持ち歩かない。特に身体がこうなってからは一人で出掛けることも少ないから、必要な時は人のものを拝借すればいい。そんな身勝手な!という者もいるが、どうせあるのだ。使えるものは使えばいい。なんでガラケーと呼ぶのかさえ私は知らない。そんな余計なことは知らなくていいのだ。 

 そして今は冒頭にあげたような有様である。スタッフを見ても製図版に向かうこと少なく、パソコンと向き合っている時間が圧倒的に長くなった。患者の顔を見ずにパソコンに向き合っている医師のことなど、とても責められない。