コラム417 < 父の想い出と後悔 ①>
私は1947年、秋田県湯沢市に生を受けた。小学校3年の夏までその地で育った。父は明治時代に祖父が始めた写真館を本家の長男である伯父(父の兄)と二人で引き継いだが、伯父は議員をしていたから、実質的には父が中心であったようだ。
休みの日には町内の子ども達共々、山に絵を描きに連れていってくれた。詳しい記憶は薄れているが、湯沢市の七夕には毎年、大きな絵灯篭(とうろう)を写場で描いていた姿を記憶しているから絵は上手だったのだろう。先祖には画家もいるから、その血を引いていたのだろう。
そんなことより、体格は大きい方ではなかったが腕っ節は強かった。親しい来客があれば、よく腕相撲をしたがった。たしかに私が高校2年の国体やインターハイに出ていた頃でも適わなかった。何でくらったか覚えていないがその時のゲンコツがごつかった。その感触は今でも何となく覚えている。
私は柔道もやっていたからさすがに体力が私の方が勝るようになって、第二次反抗期の時、取っ組み合いとなって部屋の隅まで投げ飛ばした時〝あぁ、やってはいけないことをしてしまったな・・・〟と思った。その時が私の反抗期の終焉(しゅうえん)であった。この父も私が住まい塾をスタートして第一棟目の完成見学会の日に危篤に陥り、急ぎ秋田の病院に着いた時にはもう最後の息をしていた。まわりの人達には〝あんたが着くまで待ってたんだぁ・・・〟と言われたのを記憶している。
病名は『肺繊維症』:息を吸っても吸っても酸素が吸収されない病だった。〝炭鉱にでもいたことがありますか?〟と医師に聞かれたが写真館一筋なのでそんなことは全く無かった。長いこと町内で「走ろう会」を続けてきて70才頃には世界高齢マラソンに出た程であった。〝70才を越えると急に駄目になるもんだなあ〟と言い始めたのが病の始まりだったのだろう。
亡くなって後に判明した。後に石綿公害と呼ばれるようになったあれであった。暗室には数種の液体がホーローのバットに入って並べられていたがその薬品前の壁に張られていた石綿スレート板が化学反応を起こしてブファブファだったのだ。石綿の繊維が空中に飛び散るのを暗室だったために長い間気付かずに仕事を続けてきたせいだった。酸素が吸収されないとはひどく苦しいことである、と別の医師から後で知らされた。