2023年12月4日月曜日

 コラム350 <読んで知ること、と身につくこと> 


 私はこれまで仏教関係の本や、キリスト教関係の本、その他人間の生き方に関する本を随分読んできた。教えられることも多かったが、今にして痛感するのは「学び・知る」ことと「身につく」こととの違いである。


 「身につく」とは日常生活の中で自然な形で実践できるようになることである。「知ること」は学び、研究すれば、程度の差こそあれ誰にでもできることだが、自然な形で実践できるようになるまでに「身につく」となると、これは容易なことではない。専門学者の中に知識人多くして、実践者が少ないのはそのためである。その時、知は「痴」となる。痴は癡とも書くが、知は古(いにしえ)から知る病、疑う病に陥(おちい)りやすい、との認識がどこかにあったのであろう。


 仏教では人間の三毒を貪(とん=貪欲)、瞋(じん=怒り・憎しみ)、癡(ち=無明:ものをありのままに正しく理解しないこと)と云い、その中でも最も根本的なものは「癡」であると云うから、無明を克服するとはそれ程むずかしいことなのだろう。凡庸(ぼんよう)なる人間にはなおさらのこと、しかし与えられた人生の中で、焦らずとも一歩ずつ、この無明脱出のために歩みを進めたいものだ。


 人間としてのあるべき真理を学ぶと云っても、辞典を調べて理解できる程簡単ではなく、多くの書物を読破したところで得られるといったものでもない。実体験を重ねてこそ、やっとその一端が見えてくる類のものだ。このことは、病を得て6年間苦しみと共に歩んできた中で、今身に沁みて感じていることである。

 人間の一生涯に一定の長さが与えられているのはそのためであろうとも思われる。


 私の生家は仏教(道元を開祖とする禅宗:曹洞宗)であったし、母は万教一致を説く谷口雅春氏の「生長の家」の会員でもあった。又、私自身はキリスト教会に通っていた時期もある。ある地域の支部長などをまかされた関係で、その間に得られた経験と心の友は、今も得がたい人生上の宝となっている。為すべき使命を与えられて、せっかく地球上に生まれ出た命なのだから、求めるべきものを求め続け、為すべきことを淡々と為し続けてこの人生を生き切るのだ、と己に言い聞かせている。