2020年8月3日月曜日


コラム176 <涙―その①>

 住まい塾で家をつくり、その後も親しく交流を続けてきた大沢一男さんが脳梗塞で倒れたのは、もう10年程前のことになるだろうか。恢復がままならず、まだ右脚に大きな装具を付けていた頃、住まい塾運動のよき理解者であり、しばしば酒を呑み交わし、かつ茶の湯仲間でもあった奥さんの大沢由利夫人が突然に急性白血病と診断され、迷われた末に抗ガン剤治療を選択された。だが病状は悲しいかな、急速に悪化の一途を辿り、まもなく亡くなられた。
 お別れの会では歩くのもおぼつかなかった一男さんが悲しみをこらえながら、しゃんと立ち挨拶をされた。その後時々訪ねたり、電話で話したりしたが〝すっかり涙もろくなってしまって……〟とその度に涙ぐまれた。このような姿に接していると人間の心は余分なものを涙と共に洗い流していくのかと思われた。涙は天が人間に与えた滴(しずく)のようにさえ感じられた。

 それから数年して、こんどは私が脳出血で倒れた。私が千葉県松戸市にあるリハビリテーション病院でリハビリに励んでいた頃、茶の湯仲間と共に、車に同乗し、見舞いに来てくれたことがあった。大沢さんの自宅からは距離もあるし、予想もしないことであったが、茶の湯仲間達の優しい気遣いと取り計らいであった。我々は顔を合わせるなり胸が熱くなり涙が ほほ を伝った。腰に巻いたポシェットから徳利とさかずきの絵の脇に酒と涙と添え書きのしてある少々シワシワになった絵手紙を、クシャクシャになったお見舞い袋と共に取り出し、〝やっとここまで描けるようになりました……〟と私に手渡してくれた。私とは反対の右片マヒなので、特に由利さん亡きあとの数年間はさぞかし不自由な思いをしながらの生活であったろうと思われ、再び涙がこみ上げてきた。私からの手紙には必ず不安定な字で返事をくれた。あれはうまく動かぬ左手でけんめいにかかれたものだったろう。今にしてそれがよく判る。後遺症の残り方は共通するところもあるだろうが、人それぞれによって皆違うし、それでもその身体の辛さとさまざまに錯綜する心の苦しみがわかり合えるようになったからこそ、瞬時に涙がこみ上げてきたのである。
 〝同病相憐れむ関係になりましたね〟と手を握り合った時には目に涙は残っていたもののいつもの一男さんの笑顔に戻っていた。
 その大沢さんも先日、希望に添って病院から自宅に戻り、大好きだった庭を眺めながら亡くなられた。
 御夫妻共々楽しいよき思い出を沢山残してくれた。死期が迫っているのを悟ったのであろう。自宅に戻られてから数日して亡くなられた。最後の二日間電話で話し、〝フィーリングが合う人どうしは、あの世でもまた会えるらしいよ〟との私の言葉に弱々しい声ながら、
〝タカハシさんと私はフィーリングが合うから、また合えるよね……〟
と返してくれたことが、悲しくも切ない最後の言葉として胸に刻み込まれた。