2020年3月2日月曜日



コラム154 <言葉が軽いことへの戒め> 

 ものづくりの中でも、特に家づくりは人間どうしの共感・信頼関係というものが無ければ始まらないものだ。さりとて、出会いの最初からそんなに深い人間関係が築かれているはずもない。相方共に打ち合わせを重ね、つき合いを重ねる過程で徐々に醸成されていくものである。
 「言葉が軽い」というのは、徐々につくり上げられるべきこの関係が、最初から存在しているかの如くに錯覚しているところから生じてくるのではないかと思う。
 私の書いた本を読み、「住まい塾」が特集された雑誌などを見て訪ねて見えたのだから、すでに共感と信頼感をお持ちなのだろうと担当のスタッフは考えるのかもしれない。それも勿論あるだろうが、残念ながら一冊の書物が人間と人間を精神的に深く結びつけた時代は疾うに去って、いかに精魂を込めて著された本も、雑誌も、ほとんどが「情報」の渦の中に巻き込まれていく。真の信頼・共感関係は未だに、生身の人間と人間の間に築かれていくものであることを忘れてはならないと思う。
 
 こちらが(あるいは逆の場合もあるが)親しげに話すのに対して、相手はまるで以前からの知り合いの如くに話されることに時に不快を感じることもあるのである。
 〝住まい塾のスタッフはなぜそんなに親しくもない建主に対して、親しげな口調で話をするのですか?……〟
 実際にある人から私に届いた手紙の一節である。
 人間どうし感応し合って自然に ”親しく”  なっていくのはいいが、注意せよ、 ”親しげ ” になっていいことはないものだ。
 これが軽い言葉となって表れるからである。
世には慇懃無礼(いんぎんぶれい)ということもあるし、礼儀作法の手引書から抜け出てきたような堅苦しい者もいる。こうしたタイプを快く感じない人がほとんどであることは救いだが、いずれにせよ、自然体であることが一番だろう。そうあるには無理をせず、常に自分を自分らしく磨いていくことが必要になるのだが、なぜかこれが一番むずかしいのである。

振り返ってみると、山中での人間つき合いは互いに自然体であることが多いのに気付く。自然環境の中では、つき合いに余分な要素が除かれ、自然体でのつき合いが一番似合うと、おのずから感じ取るのだろうか。あるいは気の合った人間としか付き合わずに済む、ということもあるのかもしれない。どんな場合でも、あまり虚飾や肩肘張って生きるより、地位だの、名誉だの、金持ちだのといったそんな余分な要素はなしにして、リラックスした関係でつき合うのが人間にとって一番大切なことではないだろうか。
 あの世に持っていけない余分なものにこだわりながら生きている人間達を、ピーチクパーチクの野鳥たちも牧場の牛や馬、野生の鹿たちも、気の毒に思って見つめているのではないかと思う。