2017年2月13日月曜日

コラム 76  偉大な死  

偉大な死とは人間のことではない。
さわがず、ばたつかず、静かに死を迎える。
偉いと思うのは蜂であり、蝉であり、野鳥であり、鹿である。
人間は口で言えるかどうかはともかく、〝死にたくない〟〝死にたくない〟と命に執着を見せる。
しかし上の者達は自然の摂理に身を委ね、その死はいたって静かである。 

彼らの心中やいかに、と思うこともあるが、どのような境遇で死を迎えようともおそらく、その運命を寂々たる思いで受け入れているのではないかと思う。
仏教では諦観の念といい、悟りの境地などという。しかしこうした境地に最も遠いのは人間なのではないかとふと思う時がある。 


ウソが窓ガラスに当たって死んだ時、残された番(つがい)の一羽が暗くなるまで悲しくさえずっているのを聞いた。
キジ鳩が枝の上で何日も雨に濡れ、何も食べずに悲しみに沈んでいるのを見た。おそらく番の一羽が野生動物にでもやられてしまったのだろうと思う。彼らに寂しさもあれば悲しみもある。それは鳴き声や眼の表情で判る。 
 小鹿が車にはねられて死んでいた。
小鹿は親と一緒のことが多いから、親はその場面を知っているだろう。悲しんだに違いない。だが、スピードを出し過ぎていたやもしれぬ撥()ねた者を恨んだりはしない。運命を運命として受け入れるしかすべが無い。

 人間は嘆き悲しむという。しかし彼らには悲しみはあれど、嘆きはないのではないかと思う。喜怒哀楽はあっても執着を捨てている。
恨みも悔やみもしない――ただ悲しみの感情だけが残る――これを悟りの境地と呼ばずして何と呼ぼう。彼らは偉大である。死の覚悟において、己の命は空の空、無常であることを彼らは知っている。