2016年2月15日月曜日


コラム 24 <私の山小屋>  

 私の山小屋は北斜面に建っている。南側に主たる居室の窓をもっていくのが一般的であるが、私のそれは北側についている。たまにとはいえ、見上げる道路に人が通り、車も通るというのでは落ち着かぬことだと思ったのである。
 それに北側には美しい渓流が音を立てて流れている。その瀬音もまた安らぎのひとつだったからである。この敷地を選んだ時点で私は陽光よりも渓流の瀬音と室内の落ちつきを採ったことになる。


 北側の窓から見る景色というものは奥行きさえあれば逆光に見る南側の眺めよりかえって美しいものだ。暗めの室内空間に穿たれた横長の窓。その窓に切り取られたかのような四季折々の眺望は、一幅の絵そのものだ。時々樹間を野鳥が飛び交う。 
 晴れた日には南側の小さなデッキに椅子を出して、陽を浴びながら本を読む。
冬のある日、冷えた冬空はよく晴れて青一色に染まった。外に溢れてくるフォーレの「レクイエム」を聴きながら、一冊の本を読んだ。マルコム・マゲリッジ著の『マザーテレサ』だ。その中にこんな言葉があって、萎えた私の心を奮い立たせた。
〝神は実現させるつもりのない望みを授けたりはなさらない・・・・・あなたが神さまからいただいたすばらしい天与の才能は、神のいっそうの栄誉のためにお使いになるといい。あなたの持っているすべて、今のあなた自身のすべて、そして今後のあなた自身と、なすことのできるすべてを、そのお方、ただそのおかたのためにだけのものになるようになさい。・・・・・〟
 マザーテレサがマルコム・マゲリッジに宛てた手紙の中にあった言葉だ。
 マルコム・マゲリッジも自らの言葉でこう書いている。
 〝変化する世界のなかで変化することなく、過ぎてゆく時間のめまぐるしい気まぐれのなかで永遠に真なるもの・・・・・〟 

 もしも、この暗めの室内空間が無ければ、室外での陽光を浴びる喜びも色褪せたことであったろう。
 陽が西に傾く頃、西側の細長い窓から差し込むオレンジ色の光のなかで本を読むのは私の最も好きな時間だ。夕陽はやがて西の空をえも言われぬ天然色に染めるが、うっとり眺める間もなくまたたく間に沈んでゆく。本に熱中して、気がついた時には薄明、よくもまあこんな光で字が読めたものだと一人感心したりもした。 

 自然の与える恵みとは偉大なものだ。その恵みをボロボロとこの手から零しながら生きている。
 今は狂気・狂暴の時代だ。
〝俺が金出して買った土地だ。樹を切ろうと何だろうと俺の勝手だろう!〟という人間が、標高1600メートルのこの地にもやってくる。