2025年8月18日月曜日

 コラム431 <一日一善> 


 〝一日一善〟と云う。

 入院している私は朝・昼・晩と三膳いただいているのだから〝一日三善〟を心掛けようとこう思った。

 入院中の患者さんにすれ違ったらあいさつでもほほえみでもいい、声を掛けるだけでもいい。ベッドに横になってリハビリを受けている人の動かぬようになった手を握って励ますだけでもいい。弓なりに曲がってしまった背骨をさすってやるだけでもいい。勿論少し心の交流ができた人に対してである。

 

 看護や介護の人達は見ていて大変だと思うが、長いこと接してきて、そういう現場の人達に一番大切なのは人としての優しい心根・真心であると思うようになった。入退院を繰り返して8年になる。そうした中で何よりもうれしく、苦しさを和らげてくれるのは人の心のやさしさであると確信するようになった。


 〝あの人が夜勤の時は気持ちが重くなる〟と言った人もいたし〝あの人が夜勤の時はナースコールを押さない〟という人もいた。そう言ってはいられない時もあるのだが、お互い思いやりを持って、医療・介護の現場をおだやかなものにしたいものだと思う。







2025年8月11日月曜日

 コラム430 <マンネリ──打てど響かぬ鐘の如くに──> 


  〝打てど響かぬ鐘は捨てられるのみ。〟

 

 何の職業でも基本的な知識と技術が必要なのはいうまでもない。若い内には当然不足が沢山ある。その不足を補うべく、10年、20年、30年と訓練と経験を積み重ねていくのである。


 だが、その後に待っている病がある。マンネリである。

 自分があたかも、もう出来上がっているかの如く錯覚し始める。もう学ぶことは自分には大してないという妄想と思い上がりである。

 素直な心を失い、学ぶ心を失い、向上心を失う。この驕(おご)りと慢心をこそマンネリという。もっと簡単な言葉でいえばうぬぼれ、である。


 生涯現役を理想のようにいう人は多いが、上記の心を失った人間に生涯現役をされたのではたまらない。死ぬまで仕事に携わろうというなら、その者にはあらゆる意味で生涯この向上心が必要である。向上心を失った心は素直さというたおやかな心の命を失ったも同然だからである。ベテランなどと呼ばれたりするが、勘違いしてはならない。マンネリ人間と同意かもしれないのだから・・・。

 逆にいえばマンネリに陥らぬ者をこそ天才と呼ぶべきだろう。私などはその好例である。笑うな!










2025年8月4日月曜日

 コラム429 <卑怯者(ひきょう)者!その②> 


 卑怯者!などと言われると屈辱的に胸にひびいたものだ。だから、日本人の特に男達の多くはそんな風に呼ばれない生き方をどこかで心がけてきたのではなかったか。だが今は卑怯者!などと言う言葉そのものが死語になっていて、仮にそう呼ばれるようなことがあっても恥に通じた感じ方はしないのではないか。直接対決したS社やN社との《住まい塾》の商標問題にしても、法文にさえ違反していなければ正義、しかも私なら恥と感じる事もせいいっぱい自分達に都合のいいように拡大解釈して、〝日本は法治国家なんだから、法に違反しなければいいではないか〟とさえ平然と言う。

 私は〝あなた方は法を守っているつもりのようだが、法文を守っているだけのことであって、私に言わせればあなた方は法文奴隷だ!〟とさえ言い返したものだ。裁判もその傾向が強い。宇宙に存在する法は正しくても、法文とは人間が作ったもので、しかも都合のいいように拡大解釈するような法文のどこに完全な正義があるか!と私は言いたい。

 

 そういう意味で今想い浮かんだ〝国破れて山河あり〟とかつては言ったが、今は〝国破れて惨禍あり〟だ。精神の状況において特にそれが言えるのである。






 『武士道』(新渡戸稲造)『代表的日本人』(内村鑑三)は元々英語で著されたものである。後に日本語訳となったが。なぜそうなったかは、特別の宗教観を持たぬ日本人は何を精神的規範として生きているのかという諸外国人の疑念に対して応えようとして懸命に書いたものだろう。そういう日本人がいたことを我々は忘れてはならないのではないか。