2021年12月6日月曜日


 

コラム246 <人間としての至らなさを思い知らされる>

 

 連れ合いに不機嫌に当たる。
 姉を時々怒鳴ってしまう。
 自分の時間・大きな自己犠牲を払って遠く八ヶ岳山中まで来て世話をしてくれているというのに、それに倒れて以来これまでの4年間報いたいの一念もあってそれなりにリハビリを続けてきたが、その割に恢復に向かえない苛立ち。
 その元をたどれば、それらは思うようにならない自分への苛立ち、自分の腑甲斐なさへの苛立ちである。
 そのあと必ず次の声が聞こえる。

  〝どうだ、よく判ったか?
  自分の人間としての至らなさを……
  自分が人間としていかに腑甲斐ないかを……。〟 

病に倒れてからというもの、痛い程この言葉が胸に突き刺さる。人の縁で紹介されて訪ねた『ライフ・クリニック蓼科』の麻植(おえ)先生が最初の診察の時に言われた。
 〝病になって悪いことばかりでもないでしょう〟
上述したような自己発見、自己認識のこと、他人の痛苦を知ること、病に苦しんでいる人がいかに多いかへの気づき、等々のことを言われたのだろう。
 このクリニックのポリシーは
 〝人を、地域を、医療からハッピーに〟
である。美しく、いい病院だ。