2017年9月25日月曜日

コラム 108  漢字に遊ぶ その① ―忙・親・偽―  

解釈が本意であるかどうかはともかくも、漢字に遊ぶのは実に楽しい。 

〝「忙」とは心を亡ぼす意なり〟とは、これなど誰でも知っていることであるが、年々忙しくなっていく現代にあってはもっと噛み締められていい字だ。
最近長姉が私に語った中に
〝「親」とは木の上に立って見る〟があった。語学上正しいのかは知らないが、現代の、特に日本の親達には教訓に満ちた解釈だ。
野鳥達の巣立ちから独り立ちまでの姿を見ていると、まさにその通りである。親は余計な手出しをしない。親がそうしなければ子供達は独り立ちできないのである。 

今朝もミソサザイの幼鳥達がおぼつかない飛行で下草や積まれた枯枝の間にもぐり込んだりして遊んでいるところを、しばらく眺めていたばかりだ。親鳥は樹上からチッチッ、チッチッと短く信号を送りながら見守っている。何か危険が迫ると、チ・チッ・チーッと小さな合図を送り、幼鳥達は動きをぴたりと止める。こんな姿を見ていると〝親は木の上に立って見る〟とはまんざら違った解釈とも思えないのである。 


ついでにもう一つ。
「偽」という字は + と書いて〝人が為す〟とも〝人の為〟とも解せるが、いつわりが人の為などと間違っても解してはなりません。
「為」には〝~のためにする〟という意味もあるが、この際の為は、〝なす、する、行う〟という意味である。しかしながら、人が為す・・・・・と書いていつわりになるとはおもしろいではありませんか。
                                     (つづく)